00
蒼。
空と海が延々続くさなかに、僕が立っている。
お気に入りのローブを纏って、魔導書には水耐性の魔法をかけて。
僕は君に会いに行く。そのために――。
01
時刻は初夏の真昼。
帰れない旅になるかもしれないのに、昼食を食べてきたことを思い出して苦笑いをする。
降り注ぐ日差しは、かえって僕を縛り付ける。
踝を畏怖が包んで離さない。
それは、戦いにも似た僕の旅の始まりだった。
波を分け入り、僕は沈み始めた。
02
夢を見た。
知らない人の声が、延々頭に響く夢だ。
人と目を合わせることが苦手な僕は、当然それを拒もうとして、
できなかった。
できたのかもしれないが、響いた声には説得力と、安心感をかすかに感じた。
誰にも言えない、僕の秘事だった。
その夜、夢の中で、一番大きく声が響いた。
「あいにきて」
「うみのそこまで」
ただの夢だと嗤うには、あまりに生々しかった。
03
大丈夫。
水中でも呼吸できるだけの魔法は身につけてきた。
不安を胸の内にしまいこみ、平気なふりをする。
陽光を取り込んだ海流が、僕の背中を押し始めた。
小さいころからいつも見ていた海の中は、今日もいつも通りだった。魚。珊瑚。泡。ヒトのいない世界。
いつも通りと呼べない僕だけが、大陸棚を歩いていく。
04
海面の向こうから幾本も光色の梯子が下りてくる。
僕の選択を諫めているかのようで、美しいと思う反面、腹が立ってもいた。
いつでも帰れるんだぞ、と。
今更振り返らないと決めた。嗤うなら嗤ってくれ。曲げるつもりなどない。
そんな気持ちで歩き続けると、いつの間にか海面から光が消え始めたことに気付く。
なけなしの魔法で光の粒を呼び出す。カンテラの中で、意思を持っているかのようにゆらゆらと動くのがよく見える。
魚たちが、怪訝な目で見つめていた。
05
光が届かなくなった。
寂しさを覚え始めてふと来た空間を振り返るが、感情に任せて歩き去ったことを思い出す。
いまや海中に腰を下ろせる場所はどんどん少なくなっていった。
海面越しに天を仰ぐ。今からでも帰れるかを考え、
――首を振る。
自分の意志でやり始めたことを投げ出してはいけない。父親はよく僕に言って聞かせていた。
それもそうだし、あの声の主に、僕は単純に会いたかった。
潜り始める。
06
海面の存在をもはや忘れ去るようになっていた。
召喚した光の粒が照らすが、深い深い青が閉ざす。
ふと海面を通した蒼穹に思いを馳せようとする。今頃夕刻だろうか。時間の感覚が解け去ったのを感じている。思い出せない。
ここに来るのに半日かかったようにも思えるが、三日かかったようにも思える。眠気も何度か襲った。
星空を抱く宇宙も、こんな世界なのだろうか。
見ることはできない天色を夢想する。
07
身体を動かしづらくなってくる。
水圧は魔法で増幅した僕の身体能力を蝕み始め、息苦しさが生まれ始める。
悪い想像が浮かんでは消えていった。今もし、まだ見ぬ深海生物に襲われたら。
何も考えまい。僕は誰も襲わない。昼食だって摂ったじゃないか。
ローブを翻す。声の主がが襲われてしまう前に。
08
光は少しづつ弱まりつつある。
暗闇が僕の軟弱な魔法を制し始める。
そうなる前に、僕の眼前に雪華が降り始めた。
よく見るとそれが、極小の生物の死骸だと分かる。
こんな世界にも生き物がいて、日常があって、循環があって、そんな美しい景色があるんだと気づかされた。
ふいに出た涙は、誰にも気づかれなかった。
09
悪い夢を見た。
――そう形容せざるをえない世界だ。
ごくたまにすれ違う生物たちは、地上のどんな学術書にも載っていないほど希少で、そして気味が悪かった。
既に僕は人智を越えたところに来ている、と思い知らされた。回らなくなりつつある頭で考える。
身一つで深海の底に挑むのは、愚か者のすることだ。
ならばなぜ僕がここにいるのか。
君に会いたいからだ。
声の主は切実だった。まるで、誰かの救いを待ちわびているかのようだった。
救わなければならない、そう信じさせるような声だった。
傲慢かもしれないが、それでも。
共に帰れないかもしれないが、それでも。
10
夢を見なくなった。
それどころか、何も見えなくなり始めた。
尋常ではない水圧が僕の身体を犯し、いまやただ沈むだけのモノリスに成り果てている。
後にも先にも、尽きることのない幽玄だけが、僕の周りにあった。
どれぐらい潜ったんだ。
どれぐらい沈んだんだ。
どれぐらい時間が過ぎたんだ。
猶予が無くなる。極低温の中、命の危険すら感じ始める。
助けて。
そんな感想まで浮かび始める。
声は届かない。受け取ることも、できなくなっていく。
11
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